イーストエリアの歴史の跡を辿る
(街歩き研究家 和田 哲さん)

2020.08.24

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和田 哲さん SATORU WADA 街歩き研究家

あるた出版「O.tone」編集部デスク、街歩き研究家。古地図や写真などから札幌や北海道の歴史を読み解いている。NHK「ブラタモリ」札幌編の案内人。HBC「今日ドキッ!」に不定期出演。O.toneでは「古地図と歩く」を連載している。

和田哲さんは、ブラサトルの愛称で知られる街歩き研究家。古地図や写真などから札幌や北海道の歴史を読み解き、雑誌O.toneの「古地図と歩く」は連載100回を超え、現在書籍にする準備を進めているとか。2015年にオンエアされたNHK「ブラタモリ」札幌編では、2人目の案内人を務めた人です。その和田さんと一緒に、札幌イーストエリアに残された歴史の跡を辿ってみました。

左:国土地理院発行 2万5千分の1地形図「札幌」大正5年(1916)
右:国土地理院発行 2万5千分の1地形図「札幌」平成27年(2015)

東区の住宅地に伏籠川の痕跡がある!

場所は、東区北10条東10〜11丁目辺りの住宅地。ここに、かつて流れていた伏籠川の痕跡があるといいます。伏籠川の名の由来は、アイヌ語の「フシコ(古い)・サッポロ・ペッ(乾いた大きな川)」。札幌の語源とされる「サッポロ・ペッ」は豊平川のことをさし、“古い豊平川”は伏籠川の流路を辿って流れていました。しかし、江戸時代後期に起こった大洪水で流路を変え、豊平川は現在のルートに。それまでの河道は「フシコ」と呼ぶようになり、現在の「伏古」という地名が残りました。

住宅地に残る自然な高低差は、かつての川の流れを想起させる

「あの通りを見てください。向こうの方が高くなってますよね」と和田さんが指す方を見ると、細い道路の向こう側がこんもり高くなり、なだらかな坂道を形成しています。この辺りは平坦な住宅地。改めて見ると、道路の高低差が不思議な感じがします。「この辺は埋め立てられてから何十年も経ちますが、川の流れに沿って高低差が生まれ、かつて川だった跡が地形に残っているんです。地形の高低差を調べると、川の痕跡などがわかり、そのために道路がどのように敷かれてきたのかがわかってきます」と和田さん。かつて川だった流れは、近くの公園(新穂公園)に延び、奥の方に小さな山があります。調べてみると、伏籠川は苗穂周辺を曲がりくねって流れていたとか。ここに川が流れている様子を想像すると、普通の住宅地がちょっと違う風景に見えました。

公園の奥にある小さな山も伏籠川の痕跡だと思われる

アリオの近くに引込線の跡がある!

左:国土地理院撮影空中写真 昭和36年(1961) 右:国土地理院撮影空中写真 平成20年(2008)

引込線は、工場など特定の場所に引き入れた鉄道線路。1909(明治42)年、大日本麦酒札幌工場製麦場(後のサッポロビール札幌工場)専用線が敷かれ、翌年、苗穂駅が開通しました。和田さんに案内されて行ったのは、商業施設アリオ札幌の南端、苗穂駅に向き合う建物の外側。そこにはネットに囲まれた芝生があり、入ることのできない不自然な区画の空間があります。ここが何かという表示はなく、アリオの敷地なのか何かもわからず、そのくせ照明が備えられている。「引込線は、苗穂駅からここを通ってサッポロビールのレンガの建物につながっていたんですね。1986(昭和61)年まで、引込線は残っていました」。昔の空中写真を見ると、苗穂駅構内から大きくカーブしてサッポロビールの工場につながる引込線の軌道がわかります。今は買い物客で賑わうアリオの敷地には、ガランとした工場の風景が広がっていたのでしょう。

アリオの建物に隣接するネットに囲まれた謎の芝生空間

東4丁目通のズレとは?

左:黄色で示した東4丁目通は、北1条通と北2条通の間だけ赤色の位置にズレている
国土地理院発行1万分の1地形図「札幌」(平成16年)
右:貯木場を避けるように東にズレた東4丁目通
明治32(1899)年「札幌市街之図」(札幌市公文書館)

札幌の中心部は、いわゆる「碁盤の目」の街。しかし、所々に碁盤の目がクランク状にズレた街路が存在します。今回注目したのは、サッポロファクトリーに近い北1条通と交差する東4丁目通。「ああ、あそこね!」と思う方も多いでしょう。クルマを運転しているとちょっと気を使う、あのポイントのことです。「ここにはかつて開拓使工業局の貯木場があったんですね。碁盤の目をあまり意識しないで造られたため、後の道路計画の悩みの種になったのです」と和田さん。後に貯木場は埋め立てられましたが、複雑な地割の敷地に建物が立ち並び、道路を通せなかったとか。札幌市では、現在この街路のズレを解消する計画を進めているそうです。

手前が南側、向こうが北側。ズレているのがわかりますよね?

わからないことがあるから、街歩きは面白い!

街歩き研究家として、札幌や北海道の歴史を読み解く活動をしている和田さん。どうして街歩きに興味を持ったのか、その理由を聞いてみました。

—街歩きに興味を持ったきっかけは?

初めての興味は5歳の頃。市電に乗っていると、東本願寺の辺りでカーブするのが不思議だったんですね。札幌の街は碁盤の目のはずなのに、道が曲がっているのはありえないと。でも、誰も答えてくれず、ずっとモヤモヤした気持ちで過ごしていました。

—街歩きを始めたのはいつ頃ですか?

30歳の頃、東京の中野坂上に住んでいて、近くに青梅街道が通っていたんですね。ある日、友だちと奥多摩に遊びに行ったら青梅街道が通っていて、自宅付近とつながっていることに興味を持ちました。調べていくうちに街道の歴史を知り、江戸時代の人と同じように歩いてみようと思ったのです。歩いてみると、疲れたタイミングで茶屋や宿場町があったり、単調な道の途中で神社仏閣などの名所があったり、その時代の人の気持ちに沿って道が作られていたのがわかります。

—その後、札幌に移り住むわけですね?

2010年に帰ってきましたが、初めは札幌には歴史的な道がないのでつまらないと思っていました。でも、ある日5歳の頃の疑問を思い出し、図書館で東本願寺の道路のズレについて調べてみたんですね。すると、札幌の中心部は創生川を基準に地形に合わせて造られ、山鼻地区は磁石の基地に向けて造られたのがわかりました。その背景には、開拓使に携わった者同士の対立や葛藤があり…。札幌には東京とは違う人間くさい歴史があるのではと思い、古地図を調べ始めたのです。

—古地図を調べて街の歴史を探る面白さは何ですか?

郷土史はさまざまな人が調べているけど、まだ結論が出ていないことがたくさんあります。たとえば、宮の森という地名は宮様スキー大会がきっかけというのが通説でした。しかし、ある出版社の本で、札幌神社(現在の北海道神宮)に近いから宮の森になったという説が浮かび上がり…。わからないことがあるから街歩き研究は面白いですね。古い写真を見て、現在の場所と付き合わせると、街が四次元的に見えてくる。今の風景を見ながら、昔の風景を想像するのが好きです。

—苗穂エリアの歴史的な魅力は何ですか?

最初に札幌が作られた頃、苗穂エリアは街はずれの工場地帯。開拓使の工業局や創成川の水運があり、湧き水もあったので食品や酒などを造りやすく、また鉄道の物流を活かして大工場も多く建っていました。ここには、今も工場のまち、働く人のまちという空気感が残っていますよね。再開発でマンションが建ち並び、古さと新しさが混在していますが、区画が工場の影響を受けているのも面白い。苗穂の北側には、伏籠川や元村街道の影響など、後から無理やり碁盤の目を当てはめた不条理があるのも面白いと思います。