「あの橋、なんて名前か知ってる?」当時、勤めていた会社の先輩が新入りの私に向かってそういった。札幌のまちなかを東西に走る南1条通り、創成川に架かる橋のことだ。まだ土地勘のない私に、彼女は得意げに教えてくれた。「泪橋っていうのよ」。
川を挟んでまちは西と東に別れ、同じ中心部でも、橋のあっちとこっちではまるで世界が違うのだという。あっち、つまり西側にはパルコや三越、4プラといった最先端の商業ビルが立ち並び、肩パッドの入った服を着て前髪をツンと立てた女性たちが闊歩していた。まだファッション・ショッピングエリアとしての「サツエキ」は影すらなかった時代、西4丁目界隈の眩しさといったらなかったのだ。
一方、橋のこっち側は個人商店や地元の中小企業が居並ぶ古い下町の風情で、空の色さえ鈍く感じられた。一線を画すという言葉がぴったりくるほど、西と東は対照的で、私が就職した地場の広告代理店は、そんな東の空の下にあった。会社の近くにトレンディなカフェバーなどあるわけもなく、お昼はもっぱらリヤカーでお弁当を売りに来るおばさんのお世話になっていた。それはそれで、ほのぼのとしたいい時間ではあったけれど。先輩いわく、西から東へ来るほどに淋しい気持ちが増してくる。それが泪橋の由来なのだと。話を半分に聞きながらも、若かった広告女子は札幌のまちの東西問題を感じていた。そして、いつかは自分も橋のあっち側のキラキラした人になってやろうと、ささやかな闘志を燃やしていたのだ。30年以上も前のことである。
正式には創成橋というのだが、川の向こうに上村漢薬堂を眺めながら渡るこの橋を私はいまも愛着をもって泪橋と呼んでいる。もちろん、時間は止まったままでいるわけもなく、橋の東に広がる一帯をいつからか人々はプライドを込めて、こう呼ぶようになった。創成川イースト。かっこいい響きではないか。マンハッタンのアッパーイーストにも負ける気がしないよ。
20数年前、サッポロファクトリーが開業したあたりから人の流れは確実に変わり、東側に新しい風が吹きはじめた。やる気のある若い人たちが店を開き、そうした小さいながらも感じのいい店に感度のいい人々が少しずつ集まってきた。カフェやビストロ、アートスペース、それらの多くは古い建物を生かしてリノベーションされたものだ。創成川イーストの開拓者たちは、資本がなくてもアイデアとセンスが最強の武器になることを知っていたのである。店主もお客も、自分が楽しいかどうかがいちばんのプライオリティ。だからこそ、極めて個性的な店が生まれ、泪橋のこっち側はどんどんおもしろくなっていったのだ。自分だけの穴場をいくつ持っているかも、創成川イーストを愛する者たちの、ちょっとしたステータスとなった。
さて、西側の世界に憧れていた私は、橋を渡るどころか、いきなり東京へ高飛びした。20代の後半にさしかかり、それまでの営業職から手に職をと、日本のまんなかでコピーライターを目指したのである。いずれは組織に属さず、独立して仕事をしたいという夢もあった。世の中はバブルが弾ける手前、運よく入れてくれる会社もすぐに見つかった。「生き馬の目を抜く東京」などとずいぶん脅されて上京したものの、都会の人はみんなやさしく、ありがたい修行時代を経験させてもらった。札幌を発つとき、「石の上にも3年」を絶対と決め、帰るかどうかはそれから考えることにしていた。そして、自分との約束の3年が過ぎたころ、思ったのだ。どこで仕事をするかより、どこで生きていくか。私は、札幌が好きすぎた。両手を広げれば街と自然に届き、食べもののおいしさはたぶん世界一だ。離れてみるとよくわかる。わかりすぎた。ほんの少しだけ迷って、足かけ4年でUターン。
帰札後はコピーライターとして制作プロダクションに入社したが、またもや泪橋の東側だ。とはいえ、オフィスは創成川に面しており、西側へ一歩近づいた気分だった。その後、長いこと思い続けていたフリーランスの道を歩むことになるのだが、独立して構えたオフィスはさらに東へ行ったところだった。サッポロファクトリーの北向かいにある岩佐ビル。もとは戦後まもなく建てられたサイダー工場で、幾度となく増改築を繰り返し味のあるオフィスビルへと変貌を遂げた。通りに面したビルの1階ではケーキショップやレストランのファサードも賑やかに、行き交う人々を惹きつけている。
オフィスは最上階の3階にあり、工場の面影を残す高い天井の開放感が自慢だった。私も創成川イーストの住人らしく、仕事場を自前でリノベーション。壁を白く塗り、床にツーバイ材を張り、窓辺には長いカウンターをしつらえた。特注した木の扉も、出社するたびすてきな気分にさせてくれたものだ。ビルにはデザイナーや建築家、写真家、靴職人などものづくりに携わる人々が事務所を構えていて、互いの健闘を讃えあうような空気も楽しく感じられた。10年もの間、このビルで仕事を続けられたのは、いま考えてもしあわせだったと思う。
ここを離れるときは、正直、後ろ髪を引かれる思いだった。管理人さんに退去の申し出にいくと、そんな私の気持ちを知ってか、あったかいはなむけの言葉をかけてくれた。ひとしきり残念がってくれた後、でもね、と続けたのである。「このビルを巣立っていった人たちは、皆さん、成功されて会社を大きくしている方が多いんですよ。それを私たちも誇らしく思っているのです」。
現在は西も東も関係なく、札幌の南の端っこに小さなホームオフィスを構えて5年になろうとしている。成功したかどうかはさておき、日々、豊かな気持ちで過ごしていることは間違いない。そしていま、自分のキャリアの大半が泪橋の東側で育まれてきたという事実に、少し驚いている。
(文と写真)
三枝史子/コピーライター
創成川イーストにはたまに行くぐらいで縁遠いと思っていたが、このエッセイを書き進めながら仕事人としての自分のルーツがほぼこの地域にあることを再認識してびっくり。そういえば、先日、新規開拓したすてきなビストロも創成川イーストだった。広告代理店時代、営業職に就いていた私は、朝、行ってきまーすと会社を出て泪橋を渡り、須貝ビルの地下で500円映画を観るのが日課だった(もう時効)。