YARDな風景vol.5
創成川の向こう側

NOTE
NO.17
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私は、官公庁が林立する地下鉄東西線「西11丁目」駅界隈の公務員住宅で生まれ育った。小学校は自宅の目の前だったが、中学に上がると状況が一変した。通学区域にあたる中央中学校は創成川の東側にあり、通学時間は中学生の足で約30分。同じ小学校からの進学組は少なく、中学生になって私は初めてひとりで創成川の向こう側へ渡った。

分厚い辞書や教科書が詰まった重たいカバンを肩に掛け、「行ってきます」と自宅を出てまっすぐ東へ。幼い頃から見慣れた北大植物園や赤れんが庁舎を通り過ぎ、石狩街道の向こうに日本基督教団札幌教会が見えてくる。札幌軟石と青い屋根の美しい意匠は今も昔も変わらない。

創成川の向こう側には、それまでの私が属したことのないコミュニティがあった。官庁街の小学校では、同級生は公務員や法曹、士業、会社経営者などの家が多かった。だが中学で多かったのは商いを生業にする家だった。米屋、肉屋、魚屋、寿司屋、焼鳥屋、金物屋、理髪店、銭湯……二条市場やススキノに店を構える家の子どももいた。客商売に慣れた同級生は、サラリーマン家庭で育った私の目にはおしなべてざっくばらんで人見知りせず、どこか世渡り上手に見えた。

商いの家は土地に根付く。彼らは親や祖父母、その前の世代から創成川の東側に居を構え、各々の商いで互いの暮らしを支え合い、親も子も顔見知りのコミュニティで育ってきた。その点、官庁街で育った子どもは親の転勤がつきものだ。あんなに仲良しだった友だちが不意に目の前からいなくなり、楽しく遊んだ記憶も日ごとに薄らぎ、気がつくと幼なじみのほとんどが地元を去っていた。地縁が希薄な地域で育った私は、生まれた時から同じ生活圏で育ってきた者同士が発する濃密な“地元感”に戸惑い、ある種のアウェー感を感じずにはいられなかった。

先日、中学の同窓会があった。真面目な人もお調子者もヤンチャしていた人も、みんな等しく歳を取っていた。中学時代のあだ名で呼び合いながら老眼の進みっぷりを慰め合い、あんなことがあったね、こんなことをしたねと笑い合った。

東側の住民だった同級生のほとんどが、結婚や就職で地元を離れていた。まだ実家が残っている者もいたが、親が家業をたたんで郊外へ移り住んだ者も多かった。無理もない。サッポロファクトリーもおしゃれなカフェもなく軟石倉庫が現役で活躍していた時代に比べて、街並みは激変しているのだ。

だが地元育ちが顔を合わせれば「うちの母が◯◯ちゃんのお母さんに会ったと言っていた」「今年は祭典区の年番で町内会の△△くんは大変だったらしい」なんて話が出る。彼らのやりとりを聞いていて私は気づいた。

あの頃感じていたアウェー感の正体は「羨望」だった。私が知らない濃密な地元意識で結ばれている同級生たちがうらやましかったのだ。職住一体の家が減って高層マンションが増え、この街は「創成川イースト」と呼ばれるようになった。中央中学校は2年前に新校舎が建設され、私たちが3年間を過ごした旧校舎は取り壊されて跡形もない。それでも彼らの中に地元意識がちゃんと息づいていることを、大人になった私は素直にうらやましいと思った。

創成川イーストで生まれ育つ子どもたちにも地元意識は根付いているだろうか。彼らが大人になったらどんな思い出話をするんだろう。想像したら、ちょっとうらやましくなった。

 

 

(文と写真)
佐々木美和
コピーライター。創成川イーストにあった広告制作会社でキャリアをスタートし、今年で独立10年目。中央中学校は札幌でいちばん都心に近い中学校で、在学当時はツッパリ全盛期(歳がバレる)。洋楽と読書が好きだった私はサバイブするのに必死でした。今の子どもたちがのびのび中学生活を楽しめているといいなあ。
https://www.facebook.com/miwa.sasaki.16