父と母は1962(昭和37)年、札幌で結婚した。父は1935(昭和10)年、夕張郡長沼村(現長沼町)生まれ。稲作農家で三男二女の三男。家は長沼町立第四小学校のあった道の駅マオイの丘公園の隣である。母は1941(昭和16)年、松前郡松前町生まれ。漁師で二男六女の四女。北海道最南端の岬である白神に雑貨屋と新聞販売店を営む実家があった。

母は中学を卒業後、隣町の福島にあった洋裁学校へ通っていた。左利きのため、仕立てが上手くいかず、18歳のときに2つ上の三女に誘われ、札幌ススキノの南4条西4丁目にあったおでん屋「中野」へ住み込みで働きに出た。そこで友人と一緒に来た父と知り合った。結婚したのは父が27歳、母が21歳のときである。

父は建具職人で北14条東9丁目にあった木材店で働いていた。店舗は面していた道路が環状通となる拡幅工事によって移転してしまい、当時の面影はない。ちょうど現在みよしの環状光星店がある辺りである。

札 幌 の 林 檎 の 花 の 蕾 と 碑

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父の勤め先に近い北16条東12丁目の六畳一間、家賃2,500円のアパートで二人は暮らし始めた。キッチンとトイレは共同、風呂は近所の銭湯だった。母は北13条西1丁目にあった縫製場で白衣を縫う仕事を始め、その後アパートでミシンを使って内職をしていた。ミシンのたてる音がうるさいと近所から苦情が来たため、アパート横の物置を父が改造して、小さなミシン用の部屋を造って仕事をしていた。

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私が1965(昭和40)年に生まれ、1年半経ったときに、おでん屋で働いていた母の同僚が現在住んでいるところに土地を買ったので、誘われて隣に家を建てた。住所はオリンピックの年に区制が敷かれる前の札幌市琴似町新川474番地で、屯田の牧場であった名残りで住宅はまばら。新川沿いを走るバスが平屋の家から見え、季節になると蛙が鳴いていたそうだ。テレビ塔からの市営バスは北29条西15丁目が終点で、札沼線は踏切のある地上を走行し、桑園駅と新琴似駅の間に駅はなかった。札幌オリンピックを契機に家の横を走る札樽バイパスが開通し、街が大きく変わった。

国 鉄 の ま ち の 翳(かげ)濃 し 花 辛 夷(こぶし)

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私は1988(昭和63)年、就職面接のため、現在の勤務先まで初めて来た。苗穂駅は今より東にあった旧駅舎で、改札を出て西へ歩いてから北へ渡る跨線歩道橋を越えると、北へ向かう道路は未舗装で、ポプラの大木が二三本ぶっきらぼうに立っていた。札幌駅から一つ東へ来ただけなのに随分と荒れた土地だと思った。印刷工場の敷地の道路を挟んで東側の土地はウィンターキャラメルで知られた古谷製菓があったところである。松の大木があり、雪解けの後、その根元の蕗の薹(ふきのとう)を見ると春が来たことを感じる。またその横には大きなアカシアの木があって、花の季節が終わると蘂(しべ)が道路に溜まり、風が吹くと渇いた音がして、短い夏の到来を思わせていた。しかしながら、数年前の台風でバッサリと折れてしまった。面接の結果、就職先は東京本社で2年、札幌へ戻って結婚して子供ができて、また東京へ一家で2年。それから、札幌へ戻ってからさらに名古屋へ1年半。現在は3度目の札幌勤務である。33年目の会社人生で、苗穂ではおよそ27年を過ごしたことになり、勤務先から生家までは北へ歩いて15分ほどだ。

酒 を つ ぐ 女 将 の 板 に つ き 日 永

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(文と写真)増田植歌(ますだうえか) 俳人。
「ホトトギス」「笠寺」「雪華」同人。北海道札幌西高等学校同窓会情報誌「輔仁だより」俳壇選者。