旅行者が、この街角で発見したいもの

創成川の東側には、面白い歴史がたくさんある。通訳案内士(英語ガイド)が生業である私にはありがたいことで、特に好奇心旺盛な欧米系の旅行者には魅力ある地域だ。「創成川はかつて水運に使われ、石狩川本流経由で北前船などから物資を載せ替えた船が、小さな内陸港であったここに魚や米を運んで来た」と説明したり、二条市場で彼らの大西洋にはいない魚を説明したり、豊富な地下水がビール、酒、味噌、醤油などの製造を推進した…などと案内をする。
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だが最近、旅行者たちが一番好むのは、ローカルな住人がここで何を見て何を感じたか、という極めて私的な話だと気づいた。100年単位の学ぶ歴史だけではなく、10年少しのここしか知らない私の「私的」な、たとえば私が「寿珈琲」になぜ通うようになったか、というような話を聞きたいのだ。彼らもそれに呼応して、自分の個人史と珈琲の関係などを生き生きと語り始めたりする。なるほど、プルーストの「失われた時を求めて」のように、人は旅に出て、自分の過去を「現在」として発見することに、最も興味を持つのかも知れない。

私の10年(と少し)の創成東との関わり

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2007開店当時の「寿珈琲」。当初は「カフェフィトン」という名前で、まだ出窓スペースはなかった。

私が最初にここに来たのは2007年の12月。美味しいネルドリップは、私の学生の頃の良い記憶(旅と音楽と読書、そして珈琲)と結びついていた。ここのスタッフも音楽(ジャンゴなど)も良かったが、時代がかった不思議な空間もすぐに気に入った。今でも変わらず、カウンター背面には古い煉瓦が積まれ、所々に漆喰の雑な隙間から隣のバルが覗けたし、奥の座席からグルニエに至る壁は素晴らしい札幌軟石でできている。

支笏湖の火山活動に由来する軟石でできた蔵は、札幌や小樽の街には欠かせない風景を形づくり、内陸港だったこのエリアには、古い青果店のロゴを持つもの、素敵なジュースバーに生まれ変わったもの、など魅力的な蔵たちが残っている。だが、この寿の店内になぜその遺構らしきものが?

見えてきた、100年前の歴史の断片

やがて、それらが前の店舗の時からあったもので、古い板貼りを剥がしたら現れた、と知った。2015年のある暑い夏の日、当時寿珈琲の奥にあったビストロのシェフが、僕を彼の店内に招いてくれた。その店は素敵なグルニエ(屋根裏部屋)を持つコンパクトで快適な空間で、壁は寿珈琲と同じ軟石で覆われていた。グルニエには暗い小窓があり、隣の料理店がかつては中庭だったと判るように上から見渡せ、向こうの対面には寿珈琲のグルニエの外壁が見えた。

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この寿珈琲店内の軟石と同じ壁が、奥の元のビストロ店内にもある

なんと!このビストロ全体が実はかつての軟石蔵そのものであり、中庭スペースを挟んで、寿珈琲の奥まった方(つまりビストロに近い方)にもその一部があったのだ!この建物(=M‘s二条横丁)は不思議なことに、軟石蔵の上をすっぽりと覆うような形で存在しているわけだ。

まるでローマやシアトルの地下都市のように、建物の中に隠された建物が埋まっているなんて!寿珈琲の前の店舗であった薬局は、その蔵の遺構とそれに続く煉瓦壁を埋もらせたまま、何食わぬ顔で存在していた。かなり長い間、軟石たちはそこで気づかれることもなく眠っていたのだ!

100年の歴史と10年の歴史の邂逅

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こちらはカウンター背面の煉瓦。昔は漆喰がもっと粗く、向こうのバルが見えていた

それは、僕の10年少しの創成東で珈琲を飲むというささやかな自分史が、100年前の歴史に出会った瞬間だった。さらに聞くと、ある日シェフのビストロに古老が訪れ、ここは元々事業を手広くしていた人の蔵であり、やがて遊蕩が過ぎて手放してしまったのだ、と告げたらしい。しかし詳細は皆目わからない。

100年前、このエリアは軟石や煉瓦の蔵や建物が多い地域だった。内陸港として繁栄したが、やがて一つの役目を終え、その存在を隠して他の建物の一部となり微睡んでいた後に、まさかカフェの一部として覆いを取り払われ生き返るようになるとは…当の軟石壁自身にも意外な出来事であっただろう。

このエリアの街角には、他にも「過去からの使者=蔵」がひっそりと微睡んで、僕らの「現在」を見守っているのかも知れない。どうやら僕は、ファントムの様に見えないが存在を感じる彼らの助けを借りながら、旅行者の個人史を現在に生き生きと蘇らさせることのできる、そんなガイディングをしたがっているようだ。

また寿珈琲の歴史が1日更新される

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今日も寿珈琲では、無意識のうちにまた新しい歴史が少しずつ更新されている。店内を通過していったたくさんの客や素敵なスタッフたち、飾り窓の取り付けや、寿珈琲と音楽の関わり、フルーツサンドやメニューの変遷。それらも小さな「現在」の連続として歴史を形づくっている。決して無理につくられることのない、流れに身を任せたカフェ独自の心地よさがある。

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10年少しのささやかな出来事たちをガイドとしての特権として旅行客と共有しつつ、ぶらぶら寿珈琲からこの街区を散策するのは実に楽しい。その他の話は、またの機会、お会いした時にでも。

 

(文と写真)大山幸彦 Yukihiko Hubert OYAMA
小樽生まれ函館育ち。大学在学中(東京)は文学研究の傍ら現代詩の制作に勤しむ。出版社で編集者として数年勤務した後に、古いフランス式ピストンホーン(ホルン)を習いに巴里へ。Lucien THEVET氏に師事。帰国後は自営業を経て、英語の通訳案内士として活動する一方(仏語も計画中)、ライフワークとして、楽器演奏(ピストンホーン、テナーホーン )と、旅と、詩作と、創成東の町作りに夢中。寿珈琲は開店の時から通い詰める。家族は赤いパペットが12人以上。