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最初の写真は、昭和36(1961)年の大通東6丁目の札幌東小学校。私が小学校を卒業するときに記念に買っていたものです。6年生当時は、1クラス60名で8クラス。現在は中央小学校が建っています。グラウンドの前の道路は大通、学校の後方の道路は北1条通。北1条通に面して「北1条カトリック教会」が見えます。今でも教会と隣の札幌軟石の聖堂はそのままです。

東小学校の隣の敷地は「ジジグラウンド」と呼ばれていて、休み時間にそこでよく遊んでいました。その敷地には、ついこの間まで「中央体育館」がありました。初代の「体育館」は北1条通に面して大通東2丁目にあり、現在はシティタワー札幌大通マンションが建っています。明治時代の地図にも「体育館」として記載されていました。現在の北ガスアリーナ札幌46は、3代目の「中央体育館」です。

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初代の「体育館」跡はマンションに

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2代目「中央体育館」跡地

私は、大通東3丁目で生まれ育ちました。入口が大きめの一軒家が両側にあり、1軒は工務店、もう1軒は駄菓子製造業の家。向かい合わせに1棟2戸建ての家が4棟並んだ長屋住まいでした。現在、その敷地には「伊藤良治商店:(有)丸保栄翔」と「ほくでん情報テクノロジー(株)」のビルが建っています。わが家の大家さんは「伊藤良治商店」でした。

昭和30年頃の長屋暮しの付き合いは、調味料や食材の貸し借りは当たり前。母の人柄のせいか、わが家には近所の人がよく集まって、茶話会をするのが日常でした。当時の長屋は、くみ取り式のトイレでお風呂もなく、大通東5丁目にあった銭湯に通っていました。私は26歳で家を出て、同じ住所の水洗トイレでお風呂付のアパートに引っ越し。両親はその後、東5丁目の2階建ての一軒家を借りて住むことになりました。平成7(1995)年に父が他界した後は、母は北4条東4丁目のアパートに一人で住み、町内会の世話役をやりながら最後までその界隈で暮らしていました。

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中学時代の長屋の風景、自転車に乗っているのが私

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かつての大家さん「伊藤良治商店」の現在

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長屋があったところ、現在はビルの駐車場

昭和34(1959)年に札幌中央卸売市場が現在の地に開設されるまでは、大通〜北1条東2・3丁目界隈に青果問屋や魚の卸売市場があり、活気があったことを覚えています。大通東4丁目の「あそぶべ公園」は、当時は札幌公共職業安定所(現在のハローワーク)でした。また、昭和30年代前半には「さっぽろ東劇」が南1条東4丁目にあり、子供料金が3本立て30円でしたので、週に数回近所の友だちと一緒に通い詰めたものです。東映の時代劇が鮮明に記憶にあります。

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「あそぶべ公園」は札幌公共職業安定所でした

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中学は一条中学校、今は市民ギャラリーとマンションになっています。当時は市電が通っていて、そこは南1条通一条橋の終点でした。一条中学校は、東小学校、東北小学校、中央創成小学校の3つの学校の生徒が一緒でしたので、東は苗穂駅、西は狸小路4丁目(6丁目のシアターキノのあるビルから通っていた人もいました)、南は南4条、北はJR鉄道線のところまでが校区です。私たち団塊の世代は、1クラス60人で13クラス。2年前の平成30(2018)年5月に2回目の同期会を開催しました。

古い家は建て替えられ、多くのマンションが立ち並んでいますが、数人の同級生はその界隈に住んでいます。創成川イースト地区は、世代交代も進み大きく変わっていますが、今の時代を生きる人のセンスで街づくりが行われることを期待しています。そこを離れてみると、変わった風景を訪ねる楽しみがあります。

 

(文と写真)宇佐美礼子

昭和24(1949)年生まれ。現在は東区のサッポロビール園の近くに住む。主人と息子の3人家族。昭和63(1988)年、札幌国際プラザ外国語ボランティアに登録。7か月後に主人の転勤で函館3年、登別3年を経て札幌に戻り、国際プラザのボランティアに復帰して現在に至る。